これまでの「三宅しげきから」
−2017年−

■5月31日
〜基礎からわかる三宅しげき〜


■念願の慶大に入学

どうしても慶應に行きたかったのは、幼少時に母の裁縫箱に慶應の金バッジが入っていて「これ何?」と聞いたら、「お前も将来、これをつけられたらうれしい」というようなことを言われ、それが純粋にあこがれになったのだと思う。

慶應でアメフト部に入った私だが、同期のラグビー部にいた武見敬三氏(参議院議員)と出会う。昭和49年の卒業後、私は荏原製作所に就職したのだが、武見氏の姉が麻生太郎氏の弟(麻生泰氏)のところに嫁いだ縁から、5年後に太郎氏が衆院に出る際、福岡に来ないかと誘われた。私自身は麻生セメントに入り、福岡で骨をうずめるつもりで行ったのだが、半年も経たないうちに太郎氏の父、太賀吉氏(吉田茂元総理の娘婿で元衆院議員)が亡くなり、東京に呼び戻されることになる。

そして、「麻生セメント社長秘書」「同会長秘書」「麻生太郎衆院議員秘書」の三枚の名刺を渡されて、運転手に陳情にと走り回る生活が始まった。


慶大では体育会アメフト部に打ち込む
(66番が私)



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■5月23日
〜基礎からわかる三宅しげき〜


■中・高時代はバレーボール一筋

その後、まだ田畑が広がる世田谷祖師谷に引っ越した。当時、北区と二箇所にしかなかった住宅供給公社のいわゆる「下駄履きアパート」の抽選に当たり、母は一階で美容院を続けることができた。この下駄履きアパートの後日談だが、30年近く住み老朽化したので、公社に2階建てを4階建てに建替えてほしいと交渉に行ったところ、担当から「30年も儲けさせてやったのに、この上まだ欲をかくのか」と言われたことがある。私はこれが役人が言うことかと思い、この体験は行政のあるべき姿を考える原点になった。

祖師谷小学校を卒業後、中高一貫の駒場東邦に進学、バレーボール一筋の生活が始まった。監督がやり手だったこともあり、東京オリンピックが開催された中3のときには「東洋の魔女」の大松監督に掛け合って、全日本代表の球拾いをするという貴重な経験もできた。チェコやソ連の練習も見ることができ、超一流の6人制バレーに接したことが、高校のときに都内ベスト4に勝ち進む大きな要因になったと思う。

2020年東京五輪を迎えるにあたり、一人でも多くの子供達が自分の目で身体で、同じような経験に出会えたらと望まずにはいられない。


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■5月20日
〜基礎からわかる三宅しげき〜


■おいたち

私は昭和25年2月、両国緑町で生まれた。新潟出身の母は小学校を出るとすぐに、両国の緑屋という由緒ある髪結いに丁稚奉公に出されたそうだ。その後伯母と美容院を経営していた母はシベリア抑留から帰国した父と見合い結婚をして私が生まれた。

父は、旧帝国陸軍大佐で獣医をしていた祖父の長男として生まれ、帝国倉庫運輸という海運会社に勤めていた。父は労組の中でも過激派と言われる全国港湾労組の役員となり、私が小学校4年生のときには、毛沢東に招待され中国を訪問した。当時まだ珍しかったジェット機で飛び立つ父を晴れがましい気持ちで送ったものだが、父が持ち帰った豪華な土産や盛大な宴会の写真を見せられて、何かおかしいと感じたのを覚えている。労働者の味方だと言って、いつも「起て、飢えたる者よ」と歌っていた父の姿と現実とのギャップを子どもに心に感じたのだと思う。


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